旅日記2 韓国編Vol.2「捨てるあれば拾う神あり」

 

1月26日 曇

 

 「ガチャッ」ドアが開いた。僕は目を覚ますと小さな子供がそこに立っていた。その子は照れくさそうに僕に向かって韓国語で挨拶をし部屋を出て行った。

 そうだった、僕は昨日から韓国人のキムジョンスーさんのお宅にお世話になっていたのだった。ふと時計に目をやると昼の12時過ぎを指している。僕は8時間近く寝ていたことになる。

 手早く着替えを済ませ隣のリビングルームに顔を出すと奥さんがお昼ご飯を作っているところだった。奥さんは日本人で関根靖子さんといい日本でキムさんがお仕事をされていたときに知り合って結婚されたそうである。キムさんはもうすでに会社に行かれたとのことだったが、もしよかったら知り合いで韓国に語学留学をしている日本人がいるから一緒にあちこち案内してもらったらと言われる。

 ただでさえご迷惑をかけているのに、これ以上ご迷惑かけられませんからと辞退するが、あの娘は暇だからいいのよ、はい決まりねと奥さんは早速受話器を取って電話をかけはじめた。しばらく何やら話した後、今からくるそうだから先にご飯にしましょうと言われ食事をはじめる。

 その人は飯島やすえさんといい25歳で以前日本の旅行代理店で働いていたが、会社を辞めて韓国に留学しすっかりこちらに馴染んでしまったとのこと。今日は学校が夜からみたいだからそれまでは大丈夫みたいと奥さんは笑顔で言った。

 僕達は韓国の家庭料理をいただきながら飯島さんが到着するのを待つことにする。あらかたご飯を平らげた頃だろうか飯島さんがひょっこり顔をだす。大変だったねえと彼女は気さくに話かけてくれた。僕はええ…..と少し緊張して2言3言会話を交わす。

 「荷物重いからここに置いていけば、何なら今日も家へ泊まってきなさいよ」そう奥さんは言ってくださったが、さすがにこれ以上甘えるわけにはいかない。本音を言うともう1晩泊めていただければこちらとしても金の無い身助かるのだが、そこはぐっとこらえて人と会う予定がありますのでと辞退した。

 後でお礼の手紙をだしますからと連絡先を書いてもらい礼を言って部屋を出る。

 飯島さんが僕の荷物を見て今日は何処に泊まるの?と聞いてきたので、夜の8時にYMCAで日本の友人と会う約束になっているのでとそこに泊まる旨を話し一緒に地下鉄に乗りチョンガクを目指す。2回程乗り換えチョンガクに着いた僕達はそのままYMCAにチェックインし荷物を置いて外に出た。

 どこに行きたい?と聞かれたので、現地の人が行くような所に行きたいと話すと韓国の原宿といわれる街に連れて行ってくれた。確かに若者で溢れており、道幅こそ広いが竹下通りを思い出させるような街である。

 しばらく歩くとすごい数の人達が何やらハングルで書かれた看板を持ってハチマキをしめ行進している。彼女の話によると農家の人達が国の役所に何やら抗議をするためデモ行進をしているのだと言う。僕達はそのままデモの輪の中に一緒に紛れ込み先へと歩く。するとまもなく先頭が見えてきた。何やらおじさん達が大きな声で叫んでおり、そのすぐ先には韓国の機動隊が盾を持って一列に並んでいる。さすがに少し身の危険を感じた僕達はすぐ来た道を引き返したが、韓国では時々こう行ったデモがあるとのこと。

 「3年くらい前に初めて見た時はもっとものすごい過激なやつで、火炎瓶とかサンルイ弾とかが飛び交ってて、風でながれてきてもう涙がとまんなかったわよ」彼女はそう言って笑った。

 その後ナンダイ門市場をぶらついて少し疲れたのでお茶にすることになった。近くの喫茶店に入ろうとすると後ろから「ヤスエー」と声がする。飯島さんが振り返ると、そこには彼女の知り合いの韓国人が立っていた。

 彼はこの近くの旅行代理店に勤めているそうで、仕事を抜け出して休憩していたとのこと。これからどうしようかと思ってた所だというので一緒にお茶を飲むことにした。すると彼が今日彼の地元の友人がソウルに遊びにくるので一緒に飲まないかと言う。僕も日本の友人と会う約束していることを話すと、飯島さんは日韓友好だねと一緒に合流する約束をしてしまった。

 その後僕達はYMCAに戻り約束の時間まで待つことにする。飯島さんに学校あるんじゃなかったっけ?と言うと今日はパスパス、どうせ私一番できるクラスだし本当はもう学校行かなくてもいいくらいなんだとそう答える。確かに彼女が自信漫々なのも頷ける程彼女は韓国語ができ、僕も巻いた舌を戻す暇がないくらいその語学力に驚かされていた。

 時間が近づいたので1Fの入り口に下りて知人を待つことにする。今晩会う約束をしている人というのはインターネットを通して知り合った人で、名前を上原ヨシヒロさんと言う。10年がかりで歩いて5大陸の縦横断に挑戦しているツワモノだ。

 何を隠そう僕も当初ストリートLIVEをしながらの五大陸の縦横断を企画したことがあり、ただ1人ではいくらなんでも危険なのでとTV局の番組制作に企画書をだしていた。その中の1つにはあの○波少年もあったのだが、企画を出したのが出発予定日から2ヶ月を切ってたこともあってか、結局どこからも返事はこなかった。その後誰か同じような事を考えている大ばか者はいないかインターネットで検索してみたところ、偶然見つけたのが彼のページだったのだ。

 彼と何度かネットでやり取りをするうちに、お互いの日程がちょうど韓国でうまくあうから一緒に会いましょうかという話になった。しかし僕達は互いの顔も知らない、旅をしているので住所もなく連絡はたまに入るインターネットカフェからの不定期のメールだけ、その状況で2人が出合うのは1つの奇跡と言っても良い状況ではあった。

 その事を飯島さんに話すと、時計も約束の時間を指していたこともあり、ここで日本語で彼の名前を呼んでみなさいよと、彼女は「うえはらさ〜ん」と大きな声で周りの人だかりに向かって叫びはじめた。するとすぐ後ろから「はい」との声。振り返ると小さな2人の子供づれの夫婦がそこに立っていた。

 僕達はとりあえず一緒に近くの焼肉屋に入り食事をすることにした。僕はメールで彼の家族が韓国に遊びにきていることを聞かされていたのだが、彼が26歳でこのような冒険をしていることもあって、てっきり独身で家族というのは両親だとばかり思いこんでいたのだ。しかし話によると彼は20歳で学生結婚をし、今自身はフリーのジャーナリストとして仕事をしているが、実際のところ収入は月あたり10万円もないのでほとんど奥さんが働いて家族を養なっているとのこと。

 チャキチャキの大阪弁を話す奥さんは小柄でタレントの山○花子にそっくりなのだが、彼女の堂々とした話ぶりには、上原さんがこのような挑戦ができるのもこの奥さんあってこそなのだなと感心させられ、少し羨ましくも思った。

 食事を終えた僕達は奥さんと子供達が近くのホテルに戻るのを見送った後、上原さんと飯島さんと僕の3人で日韓友好パーティ?の会場へと急いだ。

 僕は上原さんと逢うための目印にとギターを持っていたのだが、今日これから行く飲み屋は小さなステージがあるので、そこでついでに歌ったらいいよと飯島さんが言う。確かにその飲み屋のドアを空けると奥にカラオケのステージみたいなものがあった。

 僕達は互いに挨拶を交わしそれぞれテーブルにつく。こちらは日本人が3人と向こうは韓国人が5人。語学に堪能な飯島さんが通訳に入ってくれるが、できるだけ直接会話をしようとつたない英語で話し掛ける。

 あちらも多少日本語のできる人がいて向こうはつたない日本語で話かけてくれ、こちらはつたない英語で返すと言った形。込み入った話になると飯島さんが韓国語に訳してくれた。しかしどこかぎこちない雰囲気を悟ってか、飯島さんが何やら韓国の人に話すと、彼は店の店員と話しはじめた。そしてその直後OKがでたから歌っておいでよと言う。

 僕はケースからギターを取り出しステージに向かう。とりあえず2曲ぐらいということで僕はビートルズのDon’t Let me down Let it beを歌った。

 歌い終えた僕がまた輪の中に戻ると先程までぎこちなかった雰囲気は一転し急に活気を帯び出した。彼らは僕に興味を持ったのか、色々な質問を浴びせかけ僕はそれに答える。しばらくすると話の内容はこれからの日本と韓国のあり方に代わり、僕達は互いに熱く語りあった。そして出した答えは日本と韓国は色々あったけれど、僕達が変えていくのだということ。僕達が良い友達になれるように、きっと日本と韓国はこれから共に手をとって世界を相手に活躍できるはずだということ。2002年のW杯はきっといいチャンスになるだろうといったことを話しあった。

 また僕は彼らからいくつか韓国語を教わった。

 ありがとうを「カムサハムニダ」、乾杯は「コンベ」、皆に会えて良かったは「タンシヌル/マンナソ/パンガプスミダ」僕達の盛り上がりは最高潮に達し、日韓友好ビールイッキを交わした後、皆酔っ払ってカラオケに行くことになった。

 カラオケは殆ど日本の物と変わらなかったが、驚いたことが2つ。1つは日本の歌が訳半数もあり皆が膨大な量の日本の流行歌を知っていたこと。そしてもう1つが韓国のカラオケにはダンスダンスレボリューションが部屋にあり、すべての曲が踊れて遊べるようになっていること。今は韓国ではDDRが大流行しているのだ。

 僕達は声が枯れるまで歌い時間はすでに夜中の12時を過ぎていた。昨日の今ごろに置かれていた状況と比べるとまさに地獄から天国だ。

 飯島さんが僕に昨夜起こった出来事を彼らに話すと彼らは非常に申し訳なさそうに、同じ韓国人として申し訳無いとあやまった。でも悪い人もいるがいい韓国人だったいる、日本人だってそれは同じ。そう飯島さんが言うと僕達は心の底から頷いた。

 トラベラーズチェックさえ戻ってくれば逆に昨夜の出来事はこんな素敵な出会いを僕にプレゼントしてくれた貴重な体験だったとも言える。ただ僕に隙があったのも事実で反省すべきであるし、何よりあのお金が戻ってこなければ僕はこの旅を続けることすら困難な状況になってしまうのだ。僕は少し複雑な気持ちになった。

 しかし間違い無く言えること。僕達はこの夜1つになれた気がした。日本と韓国の関係は間違いなく変わる。いや僕達が変えなくては行けないそう強く感じた。

 この後飯島さんと韓国人の彼氏?は僕と上原さんをホテルまで送ってくれた。

 お金を払うと何度も申し出たのだが、韓国スタイルではゲストからお金を受けることはできない。そんな事をしたら僕達の恥じだと決して受け取ろうとはしなかった。この日の食事代から地下鉄の切符にいたるまで何から何まで出してくれた。

 飯島さんや韓国の人達が何度も連呼した韓国スタイル。僕は少し韓国が好きになった。

 ホテルの部屋に戻ると時計は夜中の1時半を指していた。明日はシンガポールへの旅立ちだ。僕は目覚まし時計を6時ににセットしベットにもぐりこんだ。明日は早い、今日はもう寝るとしよう。

 

なぜか韓国の屋台で店番する自分(笑)

 

 

 

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